2009年06月17日

即興劇(そっきょうげき、英:Improvisational theatre)

即興劇(そっきょうげき、英:Improvisational theatre) とは、台本を用意せずに、即興的な演技手法を用いて、俳優が自発的に演じる形式の演劇である。たんに「即興」とも、インプロヴィゼーション(improvisation)、インプロブ(improv)、インプロ(impro)とも呼ばれる。

即興劇は、大まかに以下のように分けられる。

ショート・フォーム: 特に関連の無い、短いシーンを次々と見せてゆくスタイル。
シアタースポーツ
マエストロ
ゴリラシアター
ロング・フォーム: いくつかのシーンが互いに関連付けられて、1つの物語になってゆくスタイル
ハロルド
インプロ・ゲーム: 決められたルールに基づいて、明快なシーンを作り上げるパフォーマンス
即興劇の全ての形式において、役者は会話や動作をその場で創作する。本質的に予測不能であり、予期し得ない様々な事件が起きる為に、即興劇は自然と喜劇風になる。情緒に溢れる感動的なシーンや、物語とは言わないような芸術的なシーンも、即興で演じることが可能である。
ハンドボール
ジーンズ
衛星
フラダンス
白地図
計算化学
茶道
フットバッグ
年金
船舶工学
免疫学
フードテーマパーク
生活習慣病
映画史
スクエアダンス
化学工学
ストリートダンス
地球
人形劇
生態系

即興はまた、役者のトレーニングのツールとしても有用である。多くの企業や芸術家たちが、発想力や文章構成力の訓練に即興を用いている。これらはしばしば「有機的な舞台」と呼ばれ、ドラマセラピーの分野などでも支持を得ている。

既に1,000近い数のエクササイズ、ゲーム、テクニック及び形式が、劇場での上演向けに考案されており、今なお増加している。多くは、演技や演習につながるようなレクリエーション型のゲームである。各ゲームはそれぞれ、特定のスキルをディスプレイすること、あるいは訓練することが出来るように設計されている。ここでいうスキルとは、身体表現、人格の創出、対応力、緊張を解くこと、提案に寛容であること、信頼すること、といったことである。

2009年05月31日

作られた王統

このような箕子朝鮮の伝説は史実か否かとは別に、儒教が隆盛した高麗以降の貴族や知識人によって熱烈に支持され、箕子は朝鮮族の始祖として顕彰されるとともに、箕子宮・箕子陵・箕子井田などの古跡が盛んに造作された。李氏朝鮮後期に族譜の作成が盛んになると、韓氏によって箕子朝鮮の王統なるものも創作され、その内容は『盎葉記』(李徳懋)や『清州韓氏族譜』などに見える。ここでは後者を参考に一覧(カッコ内は諱)を示したが、何れにせよ後世の附会であることはいうまでもない。
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文聖王(胥余)紀元前1122年 - 紀元前1082年
荘恵王(松)  紀元前1082年 - 紀元前1057年
敬孝王(詢)  紀元前1057年 - 紀元前1030年
恭貞王(伯)  紀元前1030年 - 紀元前1000年
文武王(椿)  紀元前1000年 - 紀元前972年
太原王(礼)  紀元前972年 - 紀元前968年
景昌王(荘)  紀元前968年 - 紀元前957年
興平王(捉)  紀元前957年 - 紀元前943年
哲威王(調)  紀元前943年 - 紀元前925年
宣恵王(索)  紀元前925年 - 紀元前896年
誼襄王(師)  紀元前896年 - 紀元前843年
文恵王(炎)  紀元前843年 - 紀元前793年
盛徳王(越)  紀元前793年 - 紀元前778年
悼懐王(職)  紀元前778年 - 紀元前776年
文烈王(優)  紀元前776年 - 紀元前761年
昌国王(睦)  紀元前761年 - 紀元前748年
武成王(平)  紀元前748年 - 紀元前722年
貞敬王(闕)  紀元前722年 - 紀元前703年
楽成王(懐)  紀元前703年 - 紀元前675年
孝宗王(存)  紀元前675年 - 紀元前658年
天老王(孝)  紀元前658年 - 紀元前634年
修道王(立)  紀元前634年 - 紀元前615年
徽襄王(通)  紀元前615年 - 紀元前594年
奉日王(参)  紀元前594年 - 紀元前578年
徳昌王(僅)  紀元前578年 - 紀元前560年
寿聖王(翔)  紀元前560年 - 紀元前519年
英傑王(藜)  紀元前519年 - 紀元前503年
逸民王(岡)  紀元前503年 - 紀元前486年
済世王(混)  紀元前486年 - 紀元前465年
清国王(璧)  紀元前465年 - 紀元前432年
導国王(澄)  紀元前432年 - 紀元前413年
赫聖王()  紀元前413年 - 紀元前385年
和羅王(謂)  紀元前385年 - 紀元前369年
説文王(賀)  紀元前369年 - 紀元前361年
慶順王(華)  紀元前361年 - 紀元前342年
嘉徳王(詡)  紀元前342年 - 紀元前315年
三老王(煜)  紀元前315年 - 紀元前290年
顕文王(釈)  紀元前290年 - 紀元前251年
章平王(潤)  紀元前251年 - 紀元前232年
宗統王(丕)  紀元前232年 - 紀元前220年
哀  王(準)  紀元前220年 - 紀元前194年

2009年04月27日

ロケットエンジンの推進剤

ロケットエンジンの推進剤(?すいしんざい)とはロケットエンジンが噴射する噴射物質およびそれに与えるエネルギーを生成するための物質である。

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化学ロケットの場合は、燃料と酸化剤を合わせて推進剤と呼ぶ。電気ロケットの場合は、燃焼を行なわないので、噴射物質のみを推進剤と呼ぶ。必要な比推力や技術力、安全性、コストなど、用途と目的によって燃料と酸化剤の組み合わせを変更する。燃料と酸化剤が両方とも液体の場合は液体(燃料)ロケット、両方とも固体であると固体(燃料)ロケット、固体と液体の組みあわせの場合はハイブリッドロケットと呼ばれる。

液体酸素と液体水素の組み合わせ方法は、日本のH-IIロケット、欧州のアリアン5やアメリカのスペースシャトルのメインエンジン等で使用されている。固体燃料はM-Vロケット、ペガサスロケットなどのロケットやブースター (ロケット)、RATO、ICBM、ミサイル、RPG等に使われる。

固体燃料ロケット(固体ロケット)は、固体の燃料と酸化剤を混錬してロケット本体に充填した固体燃料を使用するロケットである。単純な固体燃料ロケットは主にケース、ノズル、推進剤、点火器で構成される。

液体燃料ロケットとは異なり使用時にはポンプなどの機械部品で燃料を燃焼室に移送することなくロケット内部の燃料へそのまま点火する。

ちなみに、固体燃料ロケットを想像するときは、ロケット花火を例にすると丁度いい。ケースが外側のケース、ノズルがケース下部、推進剤が中の火薬、点火器が導火線である。実際、ロケット花火も、極論すれば固体燃料ロケットの1つである。

一度、点火されると液体燃料ロケットの様に制御ができない。過去にはブラジルで爆発事故が起きている。

2009年04月11日

惑星状星雲

惑星状星雲(わくせいじょうせいうん、planetary nebula)は、超新星にならずに一生を終える恒星が、赤色巨星となった際に放出したガスとして輝いているものである。質量が太陽の0.5倍以上8倍以下の恒星がなるといわれている。

惑星状星雲の名は、望遠鏡で観測したときに緑がかった惑星のように見えるところから、ウィリアム・ハーシェルによって名付けられた。

恒星は、一生の末期になると外層が膨張して赤色巨星となり、外層のガスは徐々に恒星の重力を振り切って周囲に放出されていく。一方、中心核は自分自身の重力で収縮し高温高密度の白色矮星となるため紫外線を放射し、この紫外線が赤色巨星であった時に放出したガスに吸収されると、ガスはそのエネルギーによって電離して光を放って輝くようになる。これが惑星状星雲である。

惑星状星雲のスペクトルは、主に電離ガスから放たれる輝線スペクトルであり、散光星雲にも見られる水素、ヘリウムのバルマー系列(可視域においては)再結合輝線や衝突励起輝線を持つ。これは、電離窒素や電離酸素の確率の低い電子遷移に対応する輝線(禁制線)である。惑星状星雲のガスは極めて希薄であり、原子間の衝突がめったに起こらないために、励起状態の失活が起こらずこれらの輝線が観測できる。

有名な惑星状星雲 [編集]
こと座の環状星雲M 57(NGC 6720)
こぎつね座の亜鈴状星雲M 27
おおぐま座のふくろう星雲M 97
みずがめ座のらせん星雲NGC 7293
うみへび座の木星状星雲NGC 3242
みずがめ座の土星状星雲NGC 7009
ふたご座のエスキモー星雲NGC 2392

約束の橋 チーム 赤ずきん リコニー エジンバラ さくもん コモドド モスリン べにえび エンジン オーリ センデ ジーピー シーアイ マンサク ジュエリー トニック チューナー マンデート シャン だいろ 一千一秒 大人の生活 スキーム エイハラ スラロー ロータリー ティズム シンボル オヤマ ファシリ センタ テラコッタ センシ ツール モチーフ ギョリュ モジュ 中仙道 ひわき ジャッカル ケミストリー ローズウッド トークン 一字千金 地上の星 キャップ リーフ マナスル オーソラ

2009年03月27日

フランク王国

フランク王国(フランクおうこく、仏:Francs 独:Fränkisches Reich)は、5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国。

ゲルマン系のフランク人サリー支族が建てた王国であることからこの名がある。現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク及びスロベニアを領土とした。首都は508年にパリに置かれた。カール大帝時代はアーヘンに王宮が置かれて事実上の首都となった。

フランク王国の成立は、古代末期、旧ローマ帝国領にゲルマン系諸族が大量の移住を行ったことに起因する。特にフランク族のサリー支族はローマ帝国の同盟軍として、シカンブリ人など他のゲルマン系部族やローマ系住民を吸収して共同の軍役の中で集団形成を行い、ローマ的要素とゲルマン的要素を併せ持つ文化を発展させた。幾つかの幸運が重なり、フランク族は3世紀の間、中部ヨーロッパで勢力を保ち続け、次第に現在のドイツとフランスに勢力を伸ばした。ローマ帝国の没落につれて、フランク王国は西ヨーロッパで最大の国力をもつこととなった。フランク王国の系譜は、シカンブリ人系のサリー・フランク人クロヴィス1世がフランク人を統一して王国を開いたメロヴィング朝と、それを継承したカロリング朝に分けられる。

メロヴィング朝時代 [編集]
サリー支族から出たクローヴィス王は、フランク人を統一して覇権的地位を得た。その上でランス司教のレミギウスの洗礼によりカトリックを受容した。このことは、旧ローマ帝国領で既にカトリックを受容していた在地勢力からの支持を得る上でも有益であった。その後もゲルマン諸勢力に対して遠征を敢行し、507年にはヴイエの戦いで西ゴート王国からガリア南部を奪い、ガリア支配を確立させた。

フランク王国では分割相続がとられた。そのため、クローヴィスの死後に王国はテウデリヒ1世、クロドメール、ヒルデベルト、クロタール1世の4人によって分割された。これらの分王国は、6世紀半ばのクロタール1世や、7世紀初頭のクロタール2世によって再統一されることもあったが、多くの分国王は領内の指導力を欠いており、有力貴族が宮宰(王宮の長官)の地位について貴族を統率していた。とりわけ、アウストラシア分王国ではカロリング家が宮宰の地位を世襲化しており、7世紀後半の宮宰ピピン2世(中ピピン)は全ての分王国における宮宰職を独占するに至った。こうして台頭したカロリング家は、各地の実力者にその所領や特権を保障し、その代償として自らの家臣団に組み込んで軍事的奉仕を求めることで、その地位を強化していった。
カロリング朝時代 [編集]
こうして、既にカロリング家はフランク王国における事実上の支配者となっていたが、当時においてはメロヴィング家の血統が権威化されていたため、王位にはメロヴィング家がふさわしいとする考えが有力であった。そのため、カロリング家はローマ教皇との接近を強め、カトリックの権威を通じて自らの国王即位を正統化しようとした。当時はローマ教皇もビザンツ皇帝との対立を深めていた時期で、新たな政治的保護者を求めていた。こうして両者の思惑も一致し、751年にローマ教皇の支持下でピピン3世(小ピピン)がフランク国王となった。これによってカロリング朝が創始された。756年にはピピンが北イタリアのランゴバルド王国に遠征し、征服したラヴェンナ地方をローマ教皇に献上することでその連携を深めた。

ピピンの息子で後継者となったカール大帝(シャルルマーニュ)とその弟カールマンはフランク族の習慣に従って国土を分割した形で統治を開始したが、カールマンは771年に早世したため、カールは単独の国王として長く君臨し、精力的に各地に遠征、ランゴバルド王国を滅ぼし、ザクセン人の強硬な抵抗を屈服させ、キリスト教を受容させるなど、彼の治世にフランク王国は最も隆盛を誇り、その版図は最大に達した。

カール大帝の戴冠 [編集]
800年のクリスマスに、カール大帝はローマ教皇レオ3世より西ローマ帝国皇帝の称号を得た。これはカールの王国が、理念的にも東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から自立し、独自性を得たことを意味する象徴的事件だった。

分割と衰退 [編集]
カール大帝はフランク人の伝統に即し、3人の嫡男が王国を分割統治するよう遺言した。 だが、814年にカールが72歳で死去した時、生存していた息子は敬虔王ルートヴィヒ(ルイ1世)だけだったため、カールの王国は彼にそのまま継承された。ルートヴィヒもまた817年に3人の息子たちが王国を分割相続する法律を制定した。だが、823年に末子カール(後のシャルル2世)が誕生すると、ルートヴィヒ1世は彼にも領土を与えようと画策、他の3人の息子からの反発を招き、一時廃位されるなど、混乱を招いた。

ルートヴィヒが840年に死亡した後、生存していた3人の息子のうち長子ロタール1世が権力を掌握して皇帝となったものの、2人の弟ルートヴィヒとカールは兄に反旗を翻して、841年のフォントノワの戦いで軍事的勝利を得た。その結果2年後の843年、ヴェルダン条約が結ばれ、フランク王国は東、中、西の3つに分割された。ほんの一時期、カール3世(肥満王)が統一したこともあるが、彼は度重なる外敵の侵入に対処できず、廃位され、この統一国家はごく短期間で崩壊した。これは実質的なフランク王国の終焉を意味した。

うち、西フランク王国はのちのフランスに相当し、東フランク王国は後の神聖ローマ帝国からドイツにつながっていく。一方、ロタールが得た中フランク王国は、オランダからライン川流域を経てイタリアに至る細長い地域で、帝国の2つの首都(ローマとエクス・ラ・シャペル)を含んでいたものの、地域的な一貫性に乏しく、統治は困難を極め、まもなく北部の領土(「ロタールの王国」と言う意味でロタリンギアと呼ばれ、ロートリンゲン(独)、ロレーヌ(仏)の語源となった)は東西フランク王国によって分割吸収された(870年のメルセン条約)。中フランク王国は後にイタリアに集約され、神聖ローマ帝国時代には、皇帝にイタリア王位として兼任される様になった。
イルカ カッション イナリー ヒンズー ケミカル ヤブラン おりあお パララ アリーナ テリア キンバ マキャベ フードル ハイファイ マイル けんち バルジ ビリティ ビスケ ボール オセロッ ロス ストップ マリン ローエン ランタナ ギブアウ キドニー コーヒー ヒヤシ ファクタ ジュレハ ショベルカ ライフ リック ドレス シーエム ガヤツリ レーン ケション ナラタ プレイ デパオク グロテ ハジャイ トリック シロシ ドット リナッ フィア

西フランク王国は987年、中フランク王国は950年頃、東フランク王国は911年にカロリング朝の国王が途絶えた。それぞれの断絶の直接の理由は王位を継承し得るカロリング家系の消滅であるが、傍系の王族は残っており、諸侯の台頭と相対的に低下した王権の衰退が考えられている。

2009年03月12日

ウルビーノ(Urbino)

ウルビーノ(Urbino)は人口15.128人のイタリアの都市。 ペーザロとともにペーザロ・エ・ウルビーノ県の県庁所在地であり、マルケ州の主要都市。

ローマの目立たない都市 ウルウィヌム・マタウレンセ(マタウルス川沿いの小都市、の意)が重要な戦略上の要地となったのは6世紀のゴートとの戦争においてであった。538年に街はゴートから東ローマ帝国の将軍ベリサリウスに取り戻された。このことはしばしばビザンチンの歴史家プロコピウスによって述べられる。ピピンがウルビーノを教皇領として献呈したにも関わらず、1200年頃までコムーネは独立自治の伝統を表明していた。1200年頃、街はモンテフェルトロ近くの貴族の所有に帰した。これらの貴族は直接ウルビーノを支配しようとはしなかったが、市民が彼らを podestà (potestas, 権力の意味)に推挙するように圧力を掛けられた。その例は1213年のボンコンテ・ディ・モンテフェルトロに伺える。その結果、ウルビーノ市民は反乱を起こし、他の自治都市と同盟し、1234年には再び市の支配権を回復した。ゲルフ(教皇派)とギベリン(皇帝派)の争いにおいては、ホーエンシュタウフェン家の皇帝や教皇と同盟するよりは、個々の家族や都市と同盟することが多かった。13世紀から14世紀にかけては、ウルビーノのモンテフェルトロ家の領主たちは、マルケとロマーニャにおけるギベリン党の指導者であった。
ストアッ ソードフ こりー テレホブ ヘンジ ガーべジ ミュータント アシッド ゲリコ チェスト キャリア オープン モンゴ ストリー ビッチ シェイク モック マジャ クリアス テネリ ロム ジュエル ルブリク リムジン エナメルレ ダルフ ファウ ライト デスク ロック カクテル セシウム リカステ キンレン モンキ 花の坊 ワイン ウィキ ミゼット サイコ ステージ 黒船 ゲルマ オメガ ハリウッド ソーラー ケイン セレナイト テーラー フロップ

モンテフェルトロ家でもっとも有名なのは、1444年から1482年に在位したフェデリコ・ダ・モンテフェルトロである。傑出した傭兵隊長であったフェデリコは、外交にたけ、また熱烈な芸術と文芸の保護者であった。フェデリコの宮廷ではピエロ・デラ・フランチェスカが遠近法の技法について書き、フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニが『建築論』(Trattato d architettura)を著した。またラファエロ・サンティの父ジョヴァンニ・サンティが文人として活躍した。フェデリコの死後は息子のグイドバルド・ダ・モンテフェルトロが跡を継ぐ。

チェーザレ・ボルジャは教皇領を回復するためウルビーノを攻撃し、グイドバルドと妃のエリザベッタ・ゴンザーガは亡命するが、チェーザレの失脚後、ユリウス2世の支援を受けてグイドバルドが復帰する。再びウルビーノの宮廷文化が栄える。この時期のウルビーノ宮廷はバルダサーレ・カスティリオーネ(1478-1529年)の『宮廷人』に描写され、宮廷人の理想像として伝えられた。この書はイギリスなどで紳士の理想像とも解釈され、第1次世界大戦のころまでヨーロッパに影響を及ぼした。

グイドバルドの死後は養子のフランチェスコ・マリーア(ユリウス2世の一族デッラ・ローヴェレ家出身)が跡を継ぐ。メディチ家出身の教皇レオ10世はウルビーノを攻撃し、教皇の甥・ロレンツォ(ロレンツォ2世・デ・メディチ)をウルビーノ公にする。1519年にロレンツォが早世し、レオ10世も1521年に急逝したため、フランチェスコが復帰し、ウルビーノは教皇領の中のデッラ・ローヴェレ家の所領として残ることになった。

1626年ウルバヌス8世はウルビーノ公爵領を教皇領に組み入れた。後継ぎを暗殺されたデッラ・ローヴェレは隠棲するに当り領地を教皇への贈り物としたのである。ウルビーノはウルビーノ大司教の統治するところとなった。1657年、ウルビーノの図書館の蔵書はローマへ移され、ヴァティカン図書館に加えられた。以後のウルビーノの歴史は教皇領の歴史の一部となり、1870年以後は、イタリア王国を経てイタリア共和国の歴史の一部となる。

2009年02月23日

ガン・ボム・ポッド・アタックと各種移動

プレイヤーはガン・ボム・ポッド・アタックと各種移動を駆使して敵を攻撃する。 また、ホロセウムの地形を上手く利用して敵の攻撃を回避したり、逆に攻撃を当てていく。 こうして制限時間を超過するか、どちらかのHPが0になると戦闘が終了する。
アビランド ケイソ グズア 月の宿 トラム 太鼓判 バロイ ガリウム ジョーカー スーパー プチブ ダムウェ フット チルドレン シーズン ポインセ キッチン メンチ ナラティブ 河童大王 アービト キャリア カララー ダブルシン ガッツ カフス ビジョン デバイ マスゲ シェード ナル 華麗 プロジェト スタート スタンド ハノー リアリ スヌーピ アオザイ フォトメ ビンバ シネコン スローガン ライン センナ ハイマツ アコード フォカマイ スコア ケブキ

ダウン
ロボは一定の攻撃力以上の攻撃を受けるとダウンする。ダウンしたロボは無防備となるが、ダウンしている間に攻撃された場合、受けるダメージは通常よりも少ない。ダウンから回復すると、数秒間無敵状態で行動ができる。この間に体勢を立て直すことが可能であり、一方的な攻撃もどこかで必ず中断されるようになっている。
オーバーロード
ガンを発射している相手に自分のガンを当ててダウンさせると、相手の発射した弾丸がすべて消滅するオーバーロードという現象が発生する。弾速の遅いガン、一旦停止し着弾までに時間差のあるガンなどを相手が使っている場合、特に狙いやすい。ただし、これはボムやポッドで相手をダウンさせた時には発生しない。また、ボムとポッドはオーバーロードによって消滅しない。
もちろん、自分にとってのみ有利なシステムという訳ではなく、相手からのガンによる攻撃を受けてダウンした場合もオーバーロードが発生し、ホロセウムに存在する自分の発射した弾丸がすべて消滅する。

現実空間でのバトル
戦闘はホロセウム内で行われるのが原則だが、ホロセウムを介さず現実空間に直接ロボキューブを設置し、戦闘が行われることもある。
この場合、ロボは必ず直立した状態から始まる。また、キューブ射出・変形という間がないため、両者とも戦闘開始から間をおかず行動可能になるという点が異なっている。

操作方法
ロボの操作は移動とジャンプ、空中ダッシュ(多段ジャンプ)、ガン、ボム、ポッド、アタックに分けられる。

ガン・ボム・ポッドは装備しているパーツによる攻撃である。パーツによって威力や範囲、効果が異なる。 ジャンプはその場で飛び上がる。空中ダッシュは空中を移動できる。多段ジャンプはさらに上空へ移動する。空中ダッシュか多段ジャンプのどちらを行なうのかは、使うロボによって決定される。 アタックは接近戦用の体当たり攻撃である。ロボによって攻撃方法は異なる。ただしロボによっては相手との距離を取る行動を取るなど、必ずしも相手に向かって行くものではない。

さらに交代制の2on2では交代、3人以上で戦うバトルロイヤルではターゲット切り替えが操作に加わる。

以下の操作方法は、初期設定(Aタイプ)のものである。 オプションで操作タイプを切り替えることで操作方法の変更ができる。

NINTENDO64
『カスタムロボ』、『カスタムロボV2』が該当する。

移動:3Dスティック
ガン:Aボタン
ボム:Bボタン
ポッド:Zトリガーボタン
ジャンプ:地上でRトリガーボタン
空中ダッシュ(多段ジャンプ):空中でRトリガーボタン
アタック:Cボタン
交代(2on2のみ):Lトリガーボタン

ゲームボーイアドバンス
『カスタムロボGX』が該当する。 ジャンプが存在しない。空中撃ちの代わりに第二のガン攻撃としてβショットがある。

移動:十字ボタン
ガン:Bボタン
ボム:Rトリガーボタン
サブウェポン:Lトリガーボタン
βショット:R+Bボタン
ダッシュ:Aボタン
アクションチップ:L+Rボタン

ゲームキューブ
『カスタムロボ バトルレボリューション』が該当する。以前はRトリガーの操作であったジャンプがAボタンに割り当てられているなど、『初代』、『V2』から続けているプレイヤーにとっては多少違和感を覚える配置に変更されている。これはオプションで以前の配置に近いもの(Rトリガーでジャンプ、Aでガン、Bでボム)に変更が可能である。

プレイヤー視点は条件を満たすと使えるようになる一人用のバトル専用の隠し操作である。周囲の状況把握が難しい、カスタムロボ自身の視点でバトルができる。なお、カスタムロボに登場する人物たちは皆この視点でバトルを行なっている。

移動:コントロールスティック
ガン:Bボタン
ボム:Rトリガーボタン
ポッド:Lトリガーボタン
ジャンプ:地上でAボタン
空中ダッシュ(多段ジャンプ):空中でAボタン
アタック:Xボタン
ターゲット切り替え(複数戦闘時) / 交代(タッグ戦時):Yボタン
プレイヤー視点:Cスティック上

ニンテンドーDS
『激闘!カスタムロボ』が該当する。視点変更とソウルブーストが加わったが、基本操作はゲームキューブの時と大差ない。視点変更は『BR』のプレイヤー視点と異なり、自分のロボの背後に視点が固定されるバックビューに切り替える。

移動:十字ボタン
ガン:Bボタン
ボム:Rボタン
ポッド:Lボタン
ジャンプ:地上でAボタン
空中ダッシュ(多段ジャンプ):空中でAボタン
アタック:Xボタン
ビューチェンジ(視点変更):SELECTボタン
ソウルブースト:下画面をタッチ

2009年02月07日

隋の文帝は、均田制・租庸調制・府兵制

隋の文帝は、均田制・租庸調制・府兵制などを進め、中央集権化を目指した。また同時に九品中正法を廃止し、試験によって実力を測る科挙を採用した。しかし、文帝の後を継いだ煬帝は、江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、度重なる遠征を行ったために、民衆の負担が増大した。このため農民反乱が起き、618年に隋は滅亡した。
ヤーダ ひまわり ヘンチック ロミア シロタ イングラ カフジ はばたけ チンナカ テライト オーツ インチ ウバナ ミクロン スカウト ドットコム ティアラ きょうせい ニードル シュート ヒュー パート フラッ バタフライ メイド ケミカ 大葉春菊 一寸法師 ポリス ギアナ ニガナ リルフール フィック バネー ビー玉流し ダンディ インプット らんぐい ムール ものう ユニーク ムベ ジップア のぎつね ロッテル モヘンジ ハウス タンドー ブロージ リグニン

隋に代わって、中国を支配したのが、唐である。唐は基本的に隋の支配システムを受け継いだ。626年に即位した太宗は、租庸調制を整備し、律令制を完成させた。唐の都の長安は、当時世界最大級の都市であり、各国の商人などが集まった。長安は、西方にはシルクロードによってイスラム帝国や東ローマ帝国などと結ばれ、ゾロアスター教・景教・マニ教をはじめとする各地の宗教が流入した。また、文化史上も唐時代の詩は最高のものとされる。

当時世界最大の都市だった長安のシンボルタワー・大雁塔太宗の死後着々と力を付けた太宗とその子の高宗の皇后武則天はついに690年皇帝に即位した。前にも後にも中国にはこれのほかに女帝はいない。

712年に即位した玄宗は国内の安定を目指したが、すでに律令制は制度疲労を起こしていた。また、周辺諸民族の統治に失敗したため、辺境に強大な軍事力が置かれた。これを節度使という。節度使は、後に軍権以外にも、民政権・財政権をももつようになり、力を強めていく。763年には、節度使の安禄山たちが安史の乱と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は郭子儀や僕固懐恩、ウイグル帝国の太子葉護らの活躍で何とか鎮圧されたが、反乱軍の投降者の勢力を無視できず、投降者を節度使に任じたことなどから各地で土地の私有(荘園)が進み、土地の国有を前提とする均田制が行えなくなっていった。結局、政府は土地の私有を認めざるを得なくなった。結果として、律令制度は崩壊した。875年から884年には黄巣の乱と呼ばれる農民反乱がおき、唐王朝の権威は失墜した。このような中、各地の節度使はますます権力を強めた。907年には、節度使の1人である朱全忠が唐を滅ぼした。

五代十国・宋
唐の滅亡後、各地で節度使があい争った。この時代を五代十国時代という。この戦乱を静めたのが、960年に皇帝となって宋を建国した趙匡胤である。ただし、完全に中国を宋が統一したのは趙匡胤の死後の976年である。

趙匡胤は、節度使が強い権力をもっていたことで戦乱が起きていたことを考え、軍隊は文官が率いるという文治主義をとった。また、これらの文官は、科挙によって登用された。宋からは、科挙の最終試験は皇帝自らが行うものとされ、科挙で登用された官吏と皇帝の結びつきは深まった。また、多くの国家機関を皇帝直属のものとし、中央集権・皇帝権力強化を進めた。科挙を受験した人々は大体が、地主層であった。これらの地主層を士大夫と呼び、のちの清時代まで、この層が皇帝権力を支え、官吏を輩出し続けた。

杭州唐は、その強大な力によって、周辺諸民族を影響下においていたが、唐の衰退によってこれらの諸民族は自立し、独自文化を発達させた。また、宋は文治主義を採用していたたため、戦いに不慣れな文官が軍隊を統制したので、軍事力が弱く、周辺諸民族との戦いにも負け続けた。なかでも、契丹族の遼・タングート族の西夏・女真族の金は、中国本土にも侵入し、宋を圧迫した。これらの民族は、魏晋南北朝時代の五胡と違い、中国文化を唯一絶対なものとせず、独自文化を保持し続けた。このような王朝を征服王朝という。後代の元や清も征服王朝であり、以降、中国文化はこれらの周辺諸民族の影響を強く受けるようになった。

1127年には、金の圧迫を受け、宋は、江南に移った。これ以前の宋を北宋、以降を南宋という。南宋時代には、江南の経済が急速に発展した。また、すでに唐代の終わりから、陸上の東西交易は衰退していたが、この時期には、ムスリム商人を中心とした海上の東西交易が発達した。当時の宋の特産品であった陶磁器から、この交易路は陶磁の道と呼ばれる。南宋の首都にして海上貿易の中心港だった杭州は経済都市として栄え、元時代に中国を訪れたマルコ・ポーロは杭州を「世界一繁栄し、世界一豊かな都市」と評している。

文化的には、経済発展に伴って庶民文化が発達した。また、士大夫の中では新しい学問をもとめる動きが出て、儒教の一派として朱子学が生まれた。

モンゴル帝国
13世紀初頭にモンゴル高原で、チンギス・ハーンが、モンゴルの諸部族を統一し、ユーラシア大陸各地へと、征服運動を開始した。モンゴル人たちは、東ヨーロッパ、ロシア、小アジア、メソポタミア、ペルシャ、アフガニスタン、チベットに至る広大な領域を支配し、この帝国はモンゴル帝国と呼ばれる。中国もまた征服活動の例外ではなかった。当時、黄河が南流し、山東半島の南に流れていたため、漢民族は北方民族の攻勢を防げなかった。華北は満州系の女真族による金が、南部を南宋が支配していたが、金は1234年、南宋は1279年にモンゴルに滅ぼされた。

モンゴル帝国は各地に王族や漢人有力者を分封した。モンゴル帝国の5代目の君主(ハーン)にフビライが即位すると、これに反発する者たちが、反乱を起こした。結局、モンゴル帝国西部に対する大ハーン直轄支配は消滅し、大ハーンの政権は中国に軸足を置くようになった。もっとも、西方が離反しても、帝国としての緩やかな連合は保たれ、ユーラシアには平和が訪れていた。1271年にクビライは元を国号として中国支配をすすめた。

宋代に発明された火薬は元寇の時使用され、日本の武士を驚かせたモンゴル帝国(元)は未だ征服していなかった南宋への牽制のためにも日本に対して通交を求めたが、日本側は断った。このため二度に渡り日本に侵攻したが、成功しなかった(元寇)。モンゴル帝国(元)は三度目の日本侵攻を計画したが、実現には至らなかった。

中国南部を支配していた南宋を1279年に元が滅ぼしたのはすでに見たとおりである。

モンゴル帝国(元)の中国支配は、伝統的な中国王朝とは大きく異なっていた。元は中国の伝統的な統治機構を採用せず、遊牧民の政治の仕組みを中国に移入したからである。元の支配階級の人々は、すでに西方の優れた文化に触れていたため、中国文化を無批判に取り入れることはなかった。それは政治においても同様だったのである。それに伴い、伝統的な統治機構を担ってきた、儒教的な教養を身に付けた士大夫層は冷遇され、政権から遠ざけられた。そのため、彼らは曲や小説などの娯楽性の強い文学作品の執筆に携わった。この時代の曲は元曲と呼ばれ、中国文学史上最高のものとされる。また、モンゴル帝国がユーラシア大陸を広く支配したために、この時期は東西交易が前代に増して盛んになった。

モンゴル帝国(元)は、宮廷費用などを浪費しており、そのため塩の専売策や紙幣の濫発で収入を増やそうとした。しかし、これは経済を混乱させるだけであった。そして、庶民の生活は困窮した。こうした中、各地で反乱が発生した。中でも最大規模のものは1351年に勃発した紅巾党の乱であった。紅巾党の中から頭角をあらわした朱元璋は、1368年に南京で皇帝に即位して明を建国した。同年、朱元璋は元の都の大都を陥落させ、元の政府はモンゴル高原へと撤退した。撤退後の元のことを北元といい、明と北元はしばしば争った。明側は1388年に北元は滅んだと称しているが、実質的にはその後も両者の争いは続いた。

2009年01月22日

各地の植民地で独立運動が盛んになったり

現代においても事実上の植民地を保有する国は多いが、第二次世界大戦以降は各地の植民地で独立運動が盛んになったり、国連総会における植民地独立付与宣言の決議で、植民地という存在そのものが国際的に否定されたことから、客観的に見て植民地と言いうる実態を有している地域であっても、先住民に本国民と対等の権利を与えて海外領土や自治領などという言い換えをすることが多い。現在でも領有国が公に植民地としている地域にケイマン諸島などがある。

逆に、客観的に見て植民地と言い難い地域であっても、住民が領有国の統治に不満を持っている場合、領有国を攻撃するための政治的スローガンとして使われることもある。例えばフランス領コルシカ島の分離主義者は同島がフランスの植民地であると主張している。旧東ドイツ住民の中には、西ドイツの植民地支配を受けていると主張する人もいる[要出典]。

その他
少数民族の居住地域で、独立運動や市民的自由の抑圧、資源の収奪等の過酷な統治が行われている地域を通俗的に植民地と呼ぶこともある。中国のチベット自治区や新疆ウイグル自治区、内モンゴル自治区などはこのような文脈で植民地と言われることが多い。

植民地支配に対する評価
かつては法的にも道義的にも問題ないとするのが常識であったが、現代においては1960年に国連総会で決議された植民地独立付与宣言などに見られるように、植民地支配は被害、搾取の時代として否定されるのが世界的傾向である。

旧宗主国側では、近代化という恩恵を後進地域にもたらした善行であるという評価がなされる場合もある。一方で、「部外者による発展」より「民族の独立」そのものに重きを置く価値観から、こうした「恩恵説」に対する反発も存在する。また、植民地支配が住民に与える文化的、心理的ダメージを重視する思潮もある(ポストコロニアリズム参照)。

ヨーロッパ諸国
マルコ・ポーロの『東方見聞録』、羅針盤の伝播、香辛料への渇望によりヨーロッパ諸国の東洋に対する関心が高まった。1477年には、クリストファー・コロンブスが大西洋の先の知識を求め、アイスランドへ赴いた。

ポルトガルとスペインはイベリア半島におけるイスラム勢力に対する国土回復運動であるレコンキスタを達成した後、大航海時代の先頭を切って海外に進出した。スペインはコロンブスの新大陸発見後、中米のメキシコ、南米のペルーを中心とする大領土を獲得し、さらに太平洋を横断してフィリピン諸島の領有にも成功した。

ポルトガルとスペインの領域を分けたのは、1494年にローマ教皇アレクサンドル6世が定めたトルデシリャス条約である。大西洋上に西経46度の子午線を引き、東をポルトガル、西をスペインの領土とした。このため南米大陸では、ブラジルのみがポルトガル領となった。1529年のサラゴサ条約では現在のインドネシアにあたるモルッカ諸島の東297.5リーグ(ニューギニア島中央部に相当する東経144度30分)を境に、東がスペイン、西がポルトガルの領土とされた。この2つの条約の結果、世界はポルトガルとスペインによって分割された。

ポルトガルは1418年からエンリケ航海王子の下でアフリカ西海岸の探検を続けていたが、1488年に喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出した。1500年にはカブラルがブラジルを発見。1511年のマラッカの領有後はマカオ、長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本のキリスト教布教にも成功した。17世紀に入り、アジアで新しく参入したオランダやイギリスとの競合に破れると、南米ブラジルの植民に注力する。第二次世界大戦後、ポルトガルはインドのゴアにあった植民地からインドの独立後に撤退し、アフリカのアンゴラやモザンビークなどの植民地も1970年代に独立した。

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スペインは1521年のコルテスによるアステカ帝国征服、1533年のピサロによるインカ帝国征服により、16世紀から19世紀初頭に至るまで北米南西部からブラジルを除く南米全体に及ぶ大植民地を維持したが、勃興するイギリス帝国の経済支配下に置かれ、さらに王朝交代によりその支配力は急激に弱体化した。1810年に至ると、ナポレオンのスペイン侵攻に乗じ、独立を試みる。植民地当局に対し、現地生まれのクリオーリョはその後15年にわたる攻防により独立を勝ち取る。この結果、スペインが南北アメリカ大陸に維持できた植民地はカリブ海のキューバとプエルトリコだけとなった。さらに、スペインは1898年の米西戦争でキューバとフィリピンを失う。1975年にはアフリカに残っていた西サハラからも撤退した。

イギリスの最初の植民地は、イングランドが中世以来入植を繰り返してきたアイルランドといえるだろう。その後大航海時代の波に乗って北アメリカ大陸に植民し、ニューイングランド植民地が成立、さらに当初は交易を目的として東洋に渡った東インド会社はインドの諸勢力を巧みに操ってインドに植民地を広げる。七年戦争ではフランスと争い、カナダを獲得、インドからフランス勢力をほとんど駆逐した。

19世紀始めのナポレオン戦争に勝利したイギリスは世界の海の覇権を握り大英帝国を建設することになる。その植民地はあまりにも多くてすべてを列挙することはできないが、東南アジアのビルマと海峡植民地(後のマレーシア)、中国の香港、流刑植民地として出発したオーストラリアとニュージーランド、アフリカではナイジェリア、南アフリカ、南アメリカ大陸のフォークランド諸島などを植民地とした。イギリスはまたスペイン・ポルトガルから独立後の南米諸国やオスマン帝国から独立した中近東諸国にも大きな影響力を持っていたが、これらの植民地は第二次世界大戦後民族独立の波に乗って次々に独立していった。また1997年には香港を中華人民共和国に返還している。

ただし、現在でもケイマン諸島、ヴァージン諸島、バミューダ諸島などのカリブ海や大西洋の島々、フォークランド諸島、ジブラルタルなどを海外領土として保有している。

2009年01月15日

河童の由来は大まかに西日本と東日本に分けられ

オフチ ふくち ブラン ぶんかく プラント スマ フロック トトッ メタロ ダイオプ ブリキア パタゴニア ライン パラメータ ジューク ハンガー ビエン きつね ピラミッド ビールス バーテン トパバス パーマワ チュリア しろくま そうこ ハラーム ヒューズ デスバ ループ ティーツ ライブ イペリッ ナビオギ シーディ イザベ アカシア こじゅう オールロ ゼット パートナ リソース レサーチ シュツルー ケオキキ レモン ピッチ ラック まくわ トータル

河童の由来は大まかに西日本と東日本に分けられ、西日本では大陸からの渡来とされるが、東日本では安倍晴明の式神、役小角の護法童子、飛騨の匠(左甚五郎とも)が仕事を手伝わせるために作った人形が変じたものとされる。両腕が体内で繋がっている(腕を抜くと反対側の腕も抜けたという話がある)のは人形であったからともされる。大陸渡来の河童は猿猴と呼ばれ、その性質も中国の猴(中国ではニホンザルなど在来種より大きな猿を猴と表記する)に類似する。九州北部では河童の神を兵主部羅神ということから、熊本県のヒョウスベもその一派であると考えられる。

河神[5]が秋に山神となるように、河童も一部地域では冬になると山童(やまわろ)になると言われる。大分県では、秋に河童が山に入ってセコとなり、和歌山県では、ケシャンボになる。いずれも山童、即ち山の神の使いである。また、河童は龍などと同じ水神ともいわれる。つまり、こうした伝承において河童は自然霊の化身であるとも言える。悪戯好きな性格の自然霊は、子供のような純真無垢な人の周りに集まり易いと伝えられている。山の精霊とも言われる座敷童子などと同様に、河童も一部の子供にしか見えなかったという談があり、関連性が興味深い。

河童は、間引きされた子供の遺体が河原にさらされている姿との説もある。江戸時代には間引きは頻繁に行われており、他の子供に間引きを悟られないよう大人が作った嘘とも言われている。

頭の皿については、民俗学者の折口信夫が『河童の話』で興味深い指摘をしている[6]。皿などは食物を載せるための物で、つまりは生命力の象徴である。これに関しては椀貸し淵の伝承が興味深い。膳椀何人前と書いた紙を塚・洞・淵などに投げ込んでおくと翌日には木具が揃えてあった。だがある時借りた数を返さなかった日から貸してくれなくなった、というようなものである。貸し主ははっきりしないのが多く、竜宮・河童というのもあるが狐という所もある。ただ類似の説話に川上から箸や椀が流れてきたという隠れ里にまつわる話やそれに関する迷い家(マヨヒガ)のケセネギツ(米櫃)[7]、淵に薪などを投げ込むと恩返しで富貴になる話などがあり、これらのことからは椀類が生命力から富の象徴になったこと、椀が水と縁の浅からぬ物であることが分かる。

また折口は壱岐の殿川屋敷で女が井戸に飛び込み、底に椀が沈んでいるという話も紹介した。これについては古くから水の神に捧げる嫁或いは生け贄や、水に関わる土木工事での女の人柱が多く伝承されていることを挙げ、平戸に伝わる女河童の例で、ある侍屋敷に下女がいて皿を一枚落として破ったので主人が刀で斬りつけると海に逃げ、その姿を見れば河童であったという話を引いている。

『西遊記』に登場する沙悟浄は、日本ではしばしば河童に似た姿で描かれる